神保町の坂、午後の三時
退職祝いに何を贈るかで、二週間ほど迷っていた。
部長の最終出社日は金曜だった。送別会は前日の木曜に、〈森田商事〉の入る神保町のビルから歩いて五分の小料理屋で開く段取りになっていた。幹事は僕で、寄せ書きの色紙と花束は同期に頼んだ。残ったのは、課からの「もうひとつ」をどうするか、だった。
部長は十年、僕の直属の上司だった。五十八歳。役職定年で、関連会社に転じる。退職と呼ぶには軽く、異動と呼ぶには重い。中途半端な節目だ。だからこそ、贈りものを選ぶ手が止まった。
候補は三つあった。万年筆。革のキーケース。ワインのギフトセット。どれも悪くない。悪くないのに、どこかでつまずいた。万年筆は書斎に押し込まれて終わる気がした。キーケースは、部長が車に乗らないことを思い出した。ワインは、奥さんが下戸だと飲み会で聞いたことがあった。
神保町の坂を、靖国通りに向かって下る。神田すずらん通りの入口を左に見ながら、午後三時の風に首を縮めた。考え事をするときは歩くに限る、と部長に教わった。十年前、入社二年目の冬だった。会議室で詰まった企画案を抱えて廊下に立っていた僕に、部長は言った。「悩むなら歩け。机より風のほうが頭に効く」。あれから僕は、行き詰まると外に出るようになった。
オリーブグリーンのこと
その日も、結局歩いた。
神保町から小川町を抜けて、御茶ノ水まで出た。聖橋から見下ろす総武線の黄色がやけに鮮やかで、橋の途中でしばらく止まった。橋の上で、ふいに思い出したことがあった。
去年の夏、出張先の長野で、部長と二人で河原の脇のキャンプ場に立ち寄ったことがあった。仕事の合間、車で通りかかっただけの寄り道だった。部長はSnow Peakの直営店に入って、十五分ほど棚を見て回った。「家ではほとんど料理もしないのに、こういう店に来るとね」と笑っていた。買い物はしなかった。手に取って戻すのを、何度か繰り返していた。たしか、タンブラーの前で一番長く立ち止まっていた。
そのときの背中を、橋の上で思い出した。
決まった、と思った。
御茶ノ水から地下鉄に乗り、外苑前で降りた。Snow Peakの店舗まで、青山通り沿いを歩く。店に着いて、サーモタンブラー470の棚の前に立った。容量は四百七十ミリリットル。中瓶のビールが一本、ちょうど入りきる量だ。マグカップなら二杯分、日本酒なら三合弱に相当する。部長の晩酌の幅が、そのまま収まると思った。
色は四つ並んでいた。シルバー、ブラック、ホワイト、オリーブグリーン。迷わずオリーブを取った。山の色だ、と思った。長野で見た棚の前の背中と、河原の向こうに見えた針葉樹の色が、頭のなかで重なった。
裏面に名入れができると店員に教わった。彫刻で、文字を入れる。書体は明朝、ゴシック、筆記体から選べる。「お名前ですか、メッセージですか」と聞かれて、少し迷った。
部長のフルネームは入れたくなかった。送別会のあとも、十年後も、二十年後も、誰かに見られて気恥ずかしくならないものがいい。退職祝いという文字も入れたくなかった。退職という二文字を、これから先の毎日の中に置いておくのは、なんだか違う気がした。
考えて、ひとつだけ短く頼んだ。「机より風」。明朝で、裏面の下のほうに小さく。受け取りは三日後。送別会の前日に、ぎりぎり間に合う計算だった。
レジでクレジットカードを出しながら、店員に箱を二重にしてもらった。包装は淡いベージュの紙で、リボンは結ばないようにした。仰々しさを削っていけば、残るのは中身だけだ、と思いたかった。
廊下の窓、金曜の午前
送別会の翌日、金曜の朝。最終出社日。
部長は午前十時の役員会に出たあと、自席の片付けを始めた。十年分の紙が、段ボール二箱で済んだ。「人生って、案外薄いね」と部長は言った。僕は何も返せなかった。
午後三時を過ぎたころ、廊下の窓際に部長を呼び出した。フロアの真ん中で渡すのは違うと思った。送別会で渡したのは、課全員からの花束と寄せ書きだった。これは、僕からの「もうひとつ」だ。窓の外には、神保町の小さな空が切り取られていた。
紙袋を渡した。部長は黙って受け取り、その場で開けた。包みを解く指がゆっくりだった。箱を開けて、オリーブグリーンの円筒を取り出して、しばらく手のひらで重さを確かめていた。
「ちょうどいいね、これ」
それだけだった。
裏返して、彫られた文字を見つけた部長は、一度だけ短く笑った。声は出なかった。窓のほうに顔を向けて、それから「ありがとう」と言った。劇的な反応ではなかった。十年いっしょに働いた人の、いつもの声の高さだった。
僕は何かを言おうとして、結局「お疲れさまでした」しか言えなかった。
部長は紙袋にタンブラーを戻し、自席に戻っていった。
その夜、家に帰って、棚の奥から二年前にもらった革の手帳カバーを引っ張り出した。前の課長から異動のときにもらったものだ。使い込まれていて、角が丸くなっていた。長く、静かに使われるものは、こういう顔になる。あのタンブラーも、五年後か十年後、部長の手のなかで角の取れた色になっているのだろう。
そう思って、棚に戻した。贈りものは渡した瞬間に終わるのではなく、相手の毎日に潜り込んでから本当に始まる。十年の上司に、十年分の「机より風」を渡せたのなら、それで十分だった。
著者ノート(金木玲)
退職祝いを書くとき、いつも迷うのは「節目を強調しすぎないこと」だ。退職という二文字は重い。だからこそ、贈りものは軽くしたい。仰々しい花束より、明日から使える円筒のほうが、たぶんその人の毎日に長く残る。この物語の主人公が選んだのも、そういう種類の重さだった。
※本作はフィクションです。登場人物・関係性・場面はすべて架空のものです。 この物語の主人公が選んだ贈りものの選び方ガイドは 男性上司への退職祝い で公開しています。
著者:金木玲(かねき・れい)/編集部 最終確認日:2026-05-09 詳細な制作方針はこのサイトについてをご覧ください。
