神保町の坂、午後の三時

退職祝いに何を贈るかで、二週間ほど迷っていた。

部長の最終出社日は金曜。送別会は前日に、神保町の小料理屋で開く段取りだった。寄せ書きと花束は同期に頼んだ。残ったのは、僕からの「もうひとつ」をどうするか、だった。

部長は十年、僕の直属だった。役職定年で関連会社へ移る。退職と呼ぶには軽く、異動と呼ぶには重い。中途半端な節目だ。だからこそ、選ぶ手が止まった。

候補は三つあった。万年筆、革のキーケース、ワインのギフトセット。どれも悪くない。悪くないのに、どこかでつまずいた。書斎に押し込まれそうだった。部長は車に乗らない。奥さんが下戸だと、いつかの飲み会で聞いた。

神保町の坂を、靖国通りに向かって下る。午後三時の風に首を縮めた。考え事をするときは歩くに限る、と部長に教わった。十年前、企画案に詰まっていた僕に、部長は言った。「悩むなら歩け。机にしがみついても答えは出ない。机より風のほうが頭に効く」。あれから僕は、行き詰まると外に出るようになった。

オリーブグリーンのこと

そのまま、御茶ノ水まで歩いた。

聖橋から見下ろす総武線の黄色がやけに鮮やかで、橋の途中でしばらく止まった。橋の上で、ふいに思い出したことがあった。

去年の夏、出張先の長野で、部長と寄り道した河原のキャンプ場でのこと。部長はSnow Peakの直営店に入って、十五分ほど棚を見て回った。「家ではほとんど料理もしないのに、こういう店に来るとね」と笑っていた。買い物はしなかった。タンブラーの前で、一番長く立ち止まっていた。

その背中を、橋の上で思い出した。決まった、と思った。

地下鉄で外苑前まで出て、サーモタンブラー470の棚に立った。色は四つ並んでいた。シルバー、ブラック、ホワイト、オリーブグリーン。迷わずオリーブを取った。山の色だ、と思った。長野の針葉樹と、棚の前の背中が、頭のなかで重なった。

裏面の名入れは、短く頼んだ。「机より風」。あの日の部長の言葉を、四文字に縮めた。明朝で、目立たない場所に。退職という二文字は、これから先の毎日の中に置きたくなかった。送別会のあとも、十年後も、誰かに見られて気恥ずかしくならないものを。

廊下の窓、金曜の午前

送別会の翌日、金曜の朝。最終出社日。

部長は午前の役員会のあと、自席の片付けを始めた。十年分の紙が、段ボール二箱で済んだ。「人生って、案外薄いね」と部長は言った。僕は何も返せなかった。

午後三時、廊下の窓際に部長を呼び出した。フロアの真ん中で渡すのは違うと思った。窓の外には、神保町の小さな空が切り取られていた。

紙袋を渡した。部長は黙って受け取り、その場で開けた。オリーブグリーンの円筒を取り出して、しばらく手のひらで重さを確かめていた。

「ちょうどいいね、これ」

裏返して文字を見つけた部長は、一度だけ短く笑った。声は出なかった。窓のほうに顔を向けて、それから「ありがとう」と言った。劇的な反応ではなかった。十年いっしょに働いた人の、いつもの声の高さだった。

僕は何かを言おうとして、結局「お疲れさまでした」しか言えなかった。

その夜、家の棚の奥から二年前にもらった革の手帳カバーを引っ張り出した。前の課長から異動のときにもらったものだ。使い込まれて、角が丸くなっていた。

長く、静かに使われるものは、こういう顔になる。あのタンブラーも、五年後か十年後、部長の手のなかで同じ顔になっているのだろう。

そう思って、棚に戻した。十年の上司に、十年分の「机より風」を渡せたのなら、それで十分だった。


物語の一品
サーモタンブラー 470 オリーブグリーン|TW-470-OG
Snow Peak(スノーピーク)

サーモタンブラー 470 オリーブグリーン|TW-470-OG

  • 容量470mLは中瓶のビール一本がちょうど収まる目安
  • 真空二重構造で温度を保つステンレスタンブラー。色はシルバー・ブラック・ホワイト・オリーブグリーンの4色
  • 本作の主人公が選んだのは、長野で見た背中の記憶からオリーブグリーン

¥5,544(楽天)

楽天で見る →

PR / アフィリエイトリンクを含みます

退職祝いとして上司に贈る具体的な選び方は、男性上司への退職祝いで整理しています。


※本作はフィクションです。登場人物・関係性・場面はすべて架空のものです。 この物語の主人公が選んだ贈りものの選び方ガイドは 男性上司への退職祝い で公開しています。


著者:金木玲(かねき・れい)/編集部 最終確認日:2026-05-09 詳細な制作方針はこのサイトについてをご覧ください。